ガザに生きるアンネ・フランクたち
6月12日は「アンネの日」。アンネ・フランクが13歳の誕生日に日記帳を受け取った日だ。
ナチスの迫害から逃れ、屋根裏部屋に潜んで暮らしたユダヤ人の少女。
彼女が綴った言葉は、世界中の人々にいまなお問いを投げかけ続けている。
彼女の生きた時代から数十年経った今、同じこの地球の上で、ガザでは空爆と飢餓の中に子どもたちが生きている。
崩れた家の下から家族の遺体を探し、配給所の列に並び、避難先も行き場もないまま、「明日がある」という感覚を失いながら。
その過酷な日常を生み出しているのは、パレスチナの人々を一方的に敵視し、力によって支配しようとする論理だ。イスラエルのネタニヤフ政権が進めているのは、武力により人々を追い詰め、居場所を奪い、生命すら脅かす政策であり、そうした暴力の連鎖が日々形を成している。
かつてユダヤ人を襲った惨劇を、人類は深く悔い、二度と繰り返さぬよう誓ったはずではなかったか。過去の民族浄化を生き延びた人々の末裔が、今度は加害の側に立ってもよいと、ネタニヤフ政権とその支持者たちは考えているのだろうか。そうであっては欲しくないし、そうあってはならない。
また、この状況に異を唱え、戦争を止めようと声を上げる、あるいは占領政策に反対するイスラエル市民、そして世界中のユダヤ人が存在する。国内外からネタニヤフ政権に働きかける声がある。
アンネ・フランクの日記は、彼女が逮捕されたその日を最後に、突然終わっている。
この「日記が途切れた」ことの重さを、私たちは忘れてはならない。彼女の人生が、言葉を綴ることすら許されないまま、断ち切られたということを。
だから、ガザの子どもたちの日記は、途中で終わってはならない。悲しみでなく、小さな笑いや夢が綴られるページが必要だ。
「学校に戻った日」「友だちとケンカした日」「将来の夢を語った日」、そんな平和な日々にたどり着くまで、どうか日記は続いて欲しい。
アンネの日記に心を打たれた人は多いだろう。けれど、もしそれが過去の物語でしかないのなら、その共感はとても脆い。
ユダヤ人の少女を襲った過去の悲劇には涙を流し、ガザの子どもたちの惨状には沈黙する。それは、都合のいい選別ではないか。
今、ガザにはたくさんのアンネがいる。誰にも届かぬ声を上げている。
「それでも、私は人間の心の中には本当は善があると、なおも信じています。」
アンネ・フランクの日記に綴られたこの言葉を思い出しながら、私は問いかけざるを得ない。
ガザに生きる子どもたちは、果たして人間の善性を信じることができるのだろうか?