愛国心という同音同字異義語

  「愛国心」と聞いて、あなたはどんな感情を思い浮かべるだろうか。

    私にとっての愛国心は、本来、家族愛や郷土愛の延長線上にあるものだった。        身近な人々を思うように、この土地で生きる人たち、文化、季節の巡りを愛する感覚。そうした静かな誇りの広がりが、自然と「国」への思いに通じていく。それが、私の考える愛国心だ。

    ところが近年、「愛国心」という言葉が、まるで別の意味で使われているように思える瞬間が増えている。

    その言葉の下で、排除や攻撃が正当化され、事実や他者への共感が抑え込まれていく。

    同じ「愛国心」なのに、まるで同音同字異義語のようだ。

    健やかな愛国心は、共に生きる人々への思いやりや、未来への責任を含んでいる。それは決して他者を貶めるものではなく、「自分たちの文化や歴史を、世界と共有しながら守っていく」ための感情だ。

    一方で、もうひとつの「愛国心」は、恐れから生まれる。自国が他国に奪われるかもしれない。自分たちの価値観が崩れるかもしれない。歴史や制度が否定されるかもしれない

    そんな「喪失の恐怖」が先に立つと、人は無意識に「自分たちだけを守る壁」をつくり始める。そうして生まれるのが、排他的で攻撃的な愛国心だ。

    今朝、カムチャツカ半島近海で大きな地震があった。日本への津波警報はすぐに報じられ、全国的な注意喚起も行われた。

    もちろん、日本の安全を守るための情報は必要だ。しかし、それと同じように震源地となったカムチャツカの人々への心配の声が、なぜこんなにも少ないのだろうか?

    日本の報道は、カムチャツカの被害についてほとんど触れない。

    SNSでも、「日本への影響がなかったこと」を安堵する声はあっても、ロシア極東の人々の安否に言及する声は、ほとんど見られなかった。

    これは偶然ではない。

    ロシア=仮想敵国、あるいは遠い存在という無意識のフィルターが、私たちの共感を鈍らせている。

    「日本人ファースト」という言葉が近年出てきたが、その感覚はすでに深く日本社会に根付いていたのかもしれない。

    本当の愛国心とは、自国の人々を大切にすることと同時に、他国の人々にも等しく人間としての尊厳を認める心であるはずだ。

  「国を愛する」とは、国を理想化して盲目的に守ることではない。

    過ちがあればそれを認め、災害があれば国境を越えて心を寄せる。そんな柔らかく、広がりのある感情こそが、誇りある愛国心だと思う。

    そしてその延長線上にあるのが、世界愛である。

    これは理想主義ではない。日々の報道に対する小さな違和感や、見えないところにいる他人へのささやかな想像力が、その第一歩なのだ。

  「敵国に津波が来たら、あなたは彼の国の人々の為に祈りますか?」

    この問いに、自分なりの答えを持てたとき、ようやく私たちは、恐れから生まれる愛ではなく、共にあるための愛へと踏み出せるのかもしれない。

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