高市首相を“低能扱い”しているのは、実は誰なのか
最近のユーチューブ界隈、とくに政治系チャンネルを見ていると、「台湾有事での高市発言は、質問した岡田議員が悪い」という、何とも雑な批判が横行している。
しかし、この論法は完全なブーメランだ。
まず前提として、あの場で問題になったのは高市首相の発言そのものだ。
国会という公式の場で、首相が発する言葉には当然ながら重みがある。ゆえに、質問者が誰であれ、発言内容が不適切であれば批判されるのは当然だ。
国会は討論の場であり、質問されたくないことを聞かれたからといって「質問者が悪い」で終わらせるのは筋が違う。ましてや、質問は事前通告されたものであるのだから、答弁は十分に練られたものであるべきだ。
しかし、一部の高市支持者たちはなぜか、高市を守るためと言いながら、
「あれは質問が悪質だったから、首相の答弁が少し乱れたのも仕方ない」と、こんな理屈を持ち出す。
だが論旨を整理すると、以下の3点がうかびあがる。
① そもそも「答弁が乱れた」「誤解を生む発言だった」と認めている。
つまり、最初から“失言”だったことを前提にしている。
② 「質問が悪いと首相はまともに答えられない」と言っているに等しい。
これはもう、高市首相の思慮や論理構成力を支持者たちが低く見積もっている告白でしかない。
簡単な質問じゃないと対応できない。そんな人物像を勝手に設定しているのだ。
③ 経済的な悪影響や国際的な誤解について、一切責任を問わない
金融市場や国際情勢は、政権トップの一言で揺れることがある。にもかかわらず、支持者たちは「首相は悪くない!悪いのは質問者!」と叫ぶだけで、肝心の“行政トップの説明責任”を放棄している。
これを冷静に見るとどうなるか。
彼らは高市首相を子ども扱いしているとなる。
大の大人で国家のトップを務める人物に対して、失言しても責任を問わず、ちょっと厳しい質問をぶつけられたら動揺して当然などと思うのは、完全に能力が低いことを前提にした甘やかしだ。批判を封じるために擁護しているつもりが、実は「高市首相には危機対応力も論理的答弁力も不足している」と遠回しに言ってしまっているのだ。
こういう構造は以前から政治の世界にある。
だが、「推し」の政治家を守りたい気持ちが暴走すると、むしろその政治家を矮小化してしまう。「責任を問わない」ことは「能力を認めていない」ことと同義だよ。
だから私はこう思う。
高市首相の能力を一番低く評価しているのは、実は敵対勢力ではなく、支持者たち自身なのではないか。
「高市首相ならこれくらいの質問でも冷静に論理的に対応できるはずだ」という期待ではなく、「高市首相は質問者が悪いと負けてしまうから守らないといけない」という過保護な政治的幼児化。
この空気こそ、いま最も危うい現象だと思う。ポピュリズムを政治家への甘やかしで返す悪循環で、この国が良くなるわけがないのだから。