マジョリティはなぜマイノリティを殴るのか
日本の政策や世論を眺めていると、ある共通した思考の癖が浮かび上がる。
それは、マイノリティの問題は全体の性質として拡張し、マジョリティの問題は例外として切り離すという、極めて非対称な扱いだ。
「例外」と「全体化」を使い分ける非対称性に気づかない限り、同じ過ちが何度も繰り返される。
再生可能エネルギーを巡る議論がそうだった。
環境破壊を伴う一部のメガソーラーは、再エネ全体の問題として語られ、制度的支援の廃止が正当化される。しかし本来問われるべきは、無秩序な開発を許した制度設計であり、再エネという選択肢そのものではない。
ここで重要なのは、同じ論理がマジョリティ側には適用されない点だ。
例えば、再エネとは対で語られることの多い原子力発電。
重大事故が起きても、それは「想定外」「特殊な条件下での事故」とされ、原発というシステム全体のリスクとして正面から扱われにくい。
一方で、メガソーラーの問題は「やはり不安定だ(だから原発が必要だ)」と再エネ全体の評価に直結する。
自動車もしかり。逆走事故や高齢ドライバーによる暴走事故が起きても、「自動車というシステムが危険だ」「自動車利用者全体を規制すべきだ」という議論にはならない。
それらは常に「例外」「個別の不幸な事故」として処理され、自動車社会という前提は守られる。
一方で、自転車政策では、事故の原因が利用者のマナーに集約され、自転車ユーザー全体が罰則強化の対象となり、自転車道の未整備という制度的欠陥はほぼ問われない。
あるラジオ番組のキャスターは、自転車のハンドルにスマートフォンを固定する行為を危険視していた。自動車にはカーナビを見ながらの運転が事実上許容されているのに、自転車については危険視する。
こうしたダブルスタンダードは、無意識の序列を反映している。
このキャスターは普段は、男性議員の多いの国会では、バイアグラは半年で認められたのに、ピルには30数年かかったとコメントしたり、マイノリティに寄り添う発言をする事も少なくなく、マジョリティがマイノリティを殴る構図に気付いているはずなのだが、こと自転車に関しては、キャスター自身がマジョリティがマイノリティを殴る思考に陥っている。
こうした、例外化と全体化の使い分けこそが、マジョリティを守りながらマイノリティを圧迫する思考法だ。それが無意識であれ、意図的であれ。
最近のニュースを追えば、外国人政策でも同じ構図が見られる。
外国人による治安や犯罪対策を求める声かを大きくなりつつある中で、日本国籍取得要件の厳格化が決められたが、問題を起こす一部の外国人は、外国人全体の性質として扱われ、日本を愛し、地域に根付き、帰化を考えてきた人々にこそ負担が及ぶ案件としか思われない。
生活保護ではさらに露骨だ。
ごく一部の不正受給が、受給者全体のモラルの問題へと拡張され、「年金より得だ」という感情的な批判が長年に渡り繰り返されている。
ここで見えてくるのは、偶然の積み重ねではなく、政権にとって都合の良い世論操作だ。
マスコミもまた、「分かりやすさ」や「国民感情」を優先する中で、この単純化に無自覚に追従していく。先のキャスターも、ここに乗っかってしまった訳だ。このキャスターには、番組の名に恥じないアップデートを果たしてもらいたいものである。
このように、問題の原因は制度の欠陥から切り離され、マジョリティの利益は守られ、マイノリティは殴られる。
大の虫を生かし小の虫を殺す論理は、別の分野でも繰り返し現れている。
強い権力を持つ「マジョリティ中のマジョリティ」である与党政治家が起こす金権事件は、不思議なほど個人の問題へと矮小化される。多くの場合、「秘書が勝手にやった」「一部の不心得者の行為だった」というお決まりの処理で幕引きが図られる。
その結果、事件を生み出した金権体質、金で政治が回るシステムは温存される。
これは偶然ではない。政党えるきは政治家がマジョリティがマジョリティであり続けるために、責任を秘書というマイノリティに押しつけ、構造には手を付けないという、極めて利己的な自己防衛だ。
実際、自民党は今なお企業献金問題から逃げ回り、制度としての是正に本腰を入れているとは言い難い。
「違法ではない」「ルールの範囲内だ」という言葉で時間を稼ぎ、その間に世論が冷めるのを待つ。
これもまた、マジョリティを守るための政治技術である。
一方で、マイノリティに対しては、まったく逆の論理が適用される。
徳島市で起きた、生活保護受給者への賞味期限切れ食品配布の問題は、その象徴だ。
「賞味期限であって消費期限ではない」という擁護論も見られたが、報道によれば1年2カ月も期限を過ぎた食品が含まれていたという。それが消費期限内だった可能性は、限りなく低い。
さらに深刻なのは、健康被害についての同意書を書かせていた点だ。
これは単なる配慮不足ではない。
「危険性は承知の上で受け取れ」「何かあっても自己責任だ」というメッセージを、制度の側から突きつけている。
これは支援だろうか。それとも、上から見下ろす形で課される、罰ゲームだろうか。
「消費期限切れでもありがたく食え」「黒ひげ危機一発のつもりで食生活を楽しめ」そう言われているように感じる人がいても、不思議ではない。
ここで問われているのは、食品の期限のことではなくて、人の尊厳をどう扱っているかという問題だ。
金権政治の当事者には、「構造の問題ではない」「個人の不祥事だ」という最大限の配慮が与えられる。
一方で、マイノリティである生活困窮者には、「リスクは自己責任」「文句を言うな」という最小限の配慮すら与えられない。
この非対称性こそが、マジョリティ守りの正体ではないか。
強者の利権を守る構造に手を付けず、弱者には自己責任と突き放す。
社会の中で、誰の利益が守られ、誰の利益(利益どころか尊厳までも)が削られても構わないとされているのか、その冷酷な優先順位がマジョリティとマイノリティとの間に露骨に表れている。ある時は意図的に、ある時は無意識に。
私たちはその事に気付くべきだろう。