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黙示録のラッパを、吹かせてはならない

     −第一のラッパが鳴った−     アメリカによるイラン核施設への空爆に、黙示録の1節が、不意に頭をよぎった。     七人の天使が手にしたラッパ(Trumpet)が鳴り響く度に、地上に深刻な災厄がもたらされるという、あの黙示録だ。ヨハネの黙示録とも呼ばれる。     しかし、ラッパを吹いたのは、天使ならぬイスラエル首相ネタニヤフ。彼が吹き鳴らしたTrumpet とは、アメリカ大統領トランプ(Trump)その人だ。     黙示録によると、第一のラッパで、雹と火が地に降り、地の三分の一が焼かれる。    イランの核施設への先制攻撃。それは、地上の一点への爆撃に留まるものではない。   「先に攻撃するのが正義」「未然に破壊すれば平和」という論理が、これをもって正当とされるなら、世界中の火薬庫に火が回るのは時間の問題だ。 黙示録にあるように、地の三分の一が焼かれる。それが未来図になりつつある。     また、今回の核施設への空爆では、辛うじて核汚染による災厄は免れたが、一度、核施設への攻撃を常套の手段として認めてしまえば、戦争の度に繰り返される危険が生じる。    黙示録の第二のラッパでは、燃える山が海に投げ込まれるとあるが、これはまるで、核施設や原子炉が破壊され、汚染が海へ広がる様子を描写しているかのようだ。     私達はこの先、第二のラッパを吹こうとする者が現れぬよう、今回のイスラエルとアメリカによる核施設への攻撃を最大級の声で非難するとともに、予防策を講じなくてはならない。     断っておくが、この先にラッパを吹き鳴らす者が続いたとしても、最後の第の七のラッパによりもたらされるという神の国は来ない。    なぜなら、今、起こっていることは神の計画などではなく、飽くまでも人による愚行だからである。     例え、天の使いの如く振る舞い吹き鳴らそうとも、鳴り響いているのは、人による災厄のファンファーレなのだ。

ガザに生きるアンネ・フランクたち

    6月12日は「アンネの日」。アンネ・フランクが13歳の誕生日に日記帳を受け取った日だ。     ナチスの迫害から逃れ、屋根裏部屋に潜んで暮らしたユダヤ人の少女。     彼女が綴った言葉は、世界中の人々にいまなお問いを投げかけ続けている。     彼女の生きた時代から数十年経った今、同じこの地球の上で、ガザでは空爆と飢餓の中に子どもたちが生きている。     崩れた家の下から家族の遺体を探し、配給所の列に並び、避難先も行き場もないまま、「明日がある」という感覚を失いながら。       その過酷な日常を生み出しているのは、パレスチナの人々を一方的に敵視し、力によって支配しようとする論理だ。イスラエルのネタニヤフ政権が進めているのは、武力により人々を追い詰め、居場所を奪い、生命すら脅かす政策であり、そうした暴力の連鎖が日々形を成している。     かつてユダヤ人を襲った惨劇を、人類は深く悔い、二度と繰り返さぬよう誓ったはずではなかったか。過去の民族浄化を生き延びた人々の末裔が、今度は加害の側に立ってもよいと、ネタニヤフ政権とその支持者たちは考えているのだろうか。そうであっては欲しくないし、そうあってはならない。    また、この状況に異を唱え、 戦争を止めようと声を上げる、あるいは 占領政策に反対する イスラエル市民、そして世界中のユダヤ人が 存在する。国内外からネタニヤフ政権に働きかける声がある。     アンネ・フランクの日記は、彼女が逮捕されたその日を最後に、突然終わっている。     この「日記が途切れた」ことの重さを、私たちは忘れてはならない。 彼女の人生が、言葉を綴ることすら許されないまま、断ち切られたということを。     だから、 ガザの子どもたちの日記は、途中で終わってはならない。悲しみでなく 、小さな笑いや夢が綴られるページが必要だ。   「学校に戻った日」「友だちとケンカした日」「将来の夢を語った日」、 そんな平和な日々にたどり着くまで、どうか日記は続いて欲しい。     アンネの日記...

少子化は本当に“悪”なのか?まず自分自身に問いかける

    出生数が70万人を割り込んだ。    「重く受け止める」「粘り強く取り組む」と繰り返すのみの政府には不信感を募らさざるを得ないが、少子化は本当に悪なのか? まずは、自分自身に問いかけるところから始めてみたい。     理性で考えれば、少子化=国家の破綻という単純な図式は成立しない。AIや外国人労働者の導入によって、労働力不足や税収減に対応する道もある。    むしろ「国民数を維持すること」が善であるという考えは、国家主義的な価値観に根ざしたものだ。     子どもを持つことを望まない人にまで「産め」と迫る社会のほうが、よほど不健全ではないだろうか。    だが一方で、感情のレベルでは、私は少子化をやはり「寂しい」「このままでいいとは思えない」と感じる。自分が日本という文化圏に属しているという感覚が、将来ぼやけていくのではないか、気がついたら隣人はAIと外国人ばかりかもという不安。それは理屈では説明しきれないが、確かに私の中にある。     私は日本史ファンだが、未来にタイムリープしたとして、日本史の本を読んでみたら、22世紀を境に、日本史を彩る人々が、みな外国人になっていたとしたら、やはり寂しく感じる。     問題は、この「もやっとした不安」につけ込むような形で、政治が、少子化対策を口実に税金の流し口を作り出している点だ。とりわけ、こども家庭庁の存在は象徴的だ。理念より予算ありき。保育所整備や手当制度は一見まっとうでも、その裏には政治家、官僚、業者が結びつく利権構造が温存されている。誤解を恐れずに言うなら、少子化対策利権という税金中抜きの蛇口と化している。     本気で少子化に向き合うなら、まず「子どもを育てることが幸せだと思える社会」に近づく努力が要る。ところが実際には、専業主婦を事実上、制度的に許さないような社会保障設計、労働市場の形成など、逆方向の政策が多い。     もはや少子化そのものより、それを口実にした利権の構築こそが悪なのではないか。     少子化が悪かどうか、これは人によって立場も感じ方も違うだろう。   ...

大河原化工機冤罪事件に見る警察のやり口は、地回りのヤクザ同然

   大河原化工機冤罪事件における警察のやり口は、とことん酷い。     無理筋な逮捕と、がん患者を死に至らしめた人質司法も許しがたいが、今度は、警察OBのいない企業を狙い撃ちした事実が持ち上がった。     いわゆる天下りといえば、官僚OBが政府とのパイプ役となり、仕事を受注する見返りとして企業に迎え入れられるという、不透明かつ不健全な構造だ。     もちろんそれ自体も看過できない問題だが、大河原化工機冤罪事件て露わとなったのは、 警察OBの場合、「パイプ役」というより、「天下りを受け入れなければ狙い撃ちにされる」という、もはや脅しに等しい状況だ。     大河原化工機冤罪事件を報じた毎日新聞の記事によれば、捜査を指揮する立場の人物が「警察OBのいない会社を重点的に調べろ」といった趣旨の指示を出していたという。これはもはや、法の執行機関としての倫理を踏みにじる所業ではないか。     天下りを受け入れれば見逃され、受け入れなければ容疑をでっち上げられる。     まるで、みかじめ料を払えば守ってやると近づき、払わなければ自らが因縁をつけて商売が出来ないように邪魔をする、今どきは姿を潜めた、地回りのヤクザのようだ。     警察とは、市民の安全と権利を守るために存在するはずではなかったのか。   ここにみられる警察官の活動は、腐敗した組織そのものだ。異常な現実が、国民の目には分かりにくいところで静かに進行している。警察官僚の天下りを含め、警察の活動には厳しい監視の目が必要で、警察を監察する公的機関やオンブズマン組織が必要だ。