論破より合意形成へ、時間をかけて話し合おう

    私たちはいつから、結論を急ぐようになったのだろう。
    そして、結論を急ぐことを「賢さ」や「効率」と取り違えるようになったのだろう。という事について、結論を急がずに、ゆっくり考えてみたい。
    Twitter(現X)では、140字で刺さる言葉が評価される。また、YouTubeなどでのショート動画では、数秒で「わかった気にさせる」語りが拡散される。
    そこでは、前提条件も、立場の違いも、迷いも削ぎ落とされ、「結論」だけが独り歩きする。
    私自身も例外ではない。
    前回の記事に書いたが、ラジオでのキャスターによる自転車ユーザーに関する発言を聞いたとき、その浅慮に対して、私は即座に怒りの140字をTwitter(現X)に投稿した。
    制度設計の問題や、無意識のマイノリティ殴りという構造の共有をはかる手間を端折り、「これはおかしい」という結論だけを先に叩きつけてしまった。
    また、日常に目を向ければ、話をまとめるのが得意ではない妻に対して、「結論から先に言って」と促してしまう自分がいる。
    自分自身の過去を遠く振り返ってみると、学生の頃の私は、議論というよりは対話、本人の中から答えを導き出させるような話し合いを比較的得意としていた気がする。お互いが学生であれば、対話するための時間に比較的ゆとりがあった。そして私は、その頃自分の生き方の指針にしようとしていたソクラテスの対話法に、知らず知らずかぶれていたこともあったのかもしれないが。
    当時と比較すると、今の自分は、随分と結論を急いでいる。
   相手の思考の過程を待つよりも、要点だけを早く知りたいという焦り。
    それは無意識のうちに、対話を省略する態度でもある。
    こうした「結論先行」は、一見すると合理的だ。
    だが、合理性の名の下に失われているものがある。
    それが、合意形成に必要な手間と時間だ。
    論破は気持ちがいい。勝ち負けがはっきりし、正しさを示した気になれる。SNSとの親和性も高いようで、いっとき論破という言葉そのものが流行した。
    しかし、論破は社会を前に進めない。
    相手を黙らせることはできても、納得させることはできないからだ。
    一方、合意形成は不器用だ。
回り道が多く、結論が出るまでに時間がかかる。
    誤解も生じるし、感情も揺れる。
    それでも民主主義が論破ではなく合意形成を基礎にしてきたのは、
    それが唯一、「異なる立場の人間が共存するための技術」だからだ。
    マジョリティがマジョリティであり続けるために、都合の悪い問題を「例外」に押し込め、マイノリティには結論だけを突きつける。
    こうした構造もまた、結論先行の思考と親和性が高い。
「違法ではない」「ルールの範囲内だ」
「自己責任だ」「嫌なら受け取らなければいい」
これらはすべて、対話を打ち切るための結論だ。
    本当に必要なのは、その結論に至るまでの過程を、面倒でも、遅くても、共有しようとする姿勢ではないか。
    私たちは、タイパ(タイムパフォーマンス)を重視するあまり、社会を成り立たせるための「非効率」を切り捨てすぎている。
    だが、民主主義とは本来、非効率なものだ。
    急がないこと、決めきらないこと、立ち止まることを含んだ制度なのだ。
    論破より合意形成へ。
    結論より過程へ。
    それは他人に求める態度である前に、まず自分自身に向けられるべき戒めなのだと思う。
    私もまた、急ぎすぎている一人なのだから。

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