言論も、私も、「紙くず」にされる日、あるいは新たなる戦前 シリーズ 国旗損壊罪⑤(最終回)
これまで四回にわたり、国旗損壊罪という一見小さな法案の背後に潜む、法制度の罠や歴史の欺瞞について考えてきた。
前回は、宮沢賢治が『注文の多い料理店』に込めた警告(注:筆者の独自解釈による)は百年を経て、私たちが主権者としての権利と言葉を奪われようとしている現実と、奇しくも一致していることを示した。
最終回となる今回は、国旗損壊罪推進派が常套とする「諸外国にも国旗を処罰する法律がある」という論理のペテンを暴くことから始め、この法案が目指すディストピアの「真の設計図」を白日の下に晒したい。
国旗損壊罪推進派は「フランスやドイツ、韓国にも同じような法律がある。だから日本にないのはおかしい」と、表面上の条文だけを並べて主張する。しかし、ここには意図的な歴史の切り捨てがある。その国々の国旗が「どうやって誕生したか」という、血で綴った物語をわざと無視しているのだ。
革命や独立運動という壮絶な手段で民主主義を勝ち取ってきた人々にとって、その旗印(三色旗や太極旗など)は天から降ってきたものではない。自分たちが命を懸けて暴政を打倒し、議会や憲法を築き上げたという「主権の証明」であり、民主主義そのものの象徴なのだ。
だからこそ、それらの国での国旗損壊は、国民自らが築いた民主主義の土台に対するテロ行為やヘイトと見なされ、法で規制されていることが推察される。
翻って、日本の日の丸はどうか。前回までに示した通り、明治政府が中央集権国家を大急ぎで仕立て上げるために、まずは商船の目印として、のちには国民を統治するためのツールとして、トップダウンで配られた「統治の記号」である。市民が血を流して勝ち取った自由の象徴とは、出自も目的も百八十度異なる。
それにもかかわらず、外国にも国旗損壊罪はあると嘯き、「革命の誇り」という看板から、「誇り」の部分だけこっそり借用する。品性下劣な詐術と言うほかない。
では、国旗を巡る真の国家の品格とは何か。それを教えてくれるのが、一九八九年のアメリカ最高裁判所による「テキサス州対ジョンソン判決」だ。
星条旗を燃やした男が逮捕されたこの事件で、最高裁は「国旗を燃やす行為すら、憲法が保障する表現の自由である」として無罪を言い渡した。当時の判決文は、今読んでも色褪せない強烈な光を放っている。
この判決の、「国旗が象徴する自由を保護するために、国旗を燃やす自由をも保障しなければならない。国家のシンボルを大切にする最善の方法は、そのシンボルを刑罰で守ることではなく、そのシンボルが内包する自由の広さを証明することだ」との趣旨は、国民が星条旗に委ねた尊厳を守るために、国民の自由という本質を差し出すなということであり、近代民主主義国家に相応しい態度と思える。
翻って、この日本で作られようとしている法律の歪さはどうだ。
それは、国旗に尊敬の念を抱かないという内心を、国旗が損壊されたら不快に思うという内心が征服する法律だ。マジョリティの「不快感」という感情を斧に、マイノリティの「内心の自由」を力づくでへし折る。そんなことが許されれば、それはもはや民主主義国家ではない。
しかし、今の日本が進もうとしている道は、この通り民主主義とは真逆、国家主義への「大逆走」である。
なぜ今、ただの布切れに不可侵の神聖さを強制的に付け加え、警察が恣意的な判断のもとで逮捕できる「非親告罪」の国旗損壊罪を作ろうとするのか。その狙いは、権力が仕込んだ「尊厳保護の三段ドミノ倒し」の最初の一枚目を倒すことにあると私は見ている。
最初から「総理大臣を批判したら厳罰だ」という法律を作れば、民主主義国家としてあまりに露骨すぎて国民の大反発を食らう。だからこそ、誰も反対しにくい抽象的なシンボルから順番に外堀を埋めてしていく。
まず第一のドミノとして「国旗の尊厳」を刑罰で縛る。前例ができれば、第二のドミノとして「天皇の尊厳」へ進む。戦後の人間宣言で一度は「生身の人間」に戻した皇室を、人権を無視した養子案(血統の絶対化)によって再び「神話の檻(誰も触れられないタブー)」へと押し戻し、新型の「不敬罪」を完成させる。そう、国旗損壊罪と並行して急ピッチで進められようとしている皇室典範の改定もドミノのひとコマなのだ。
そして最終目的こそが、第三のドミノ、「天皇から権力を託された為政者(総理や政策)への批判封殺」である。
「私は天皇陛下から国家の運営を仰せつかった公僕に過ぎない。しかし、私が進める有事の政策や法改正を批判することは、陛下の任命の正当性を疑い、ひいては国家の尊厳そのものを傷つける行為である」
この論理のドミノが完成した時、時の為政者は自分の手を一切汚すことなく、警察を自動マシーンのように使い、気に入らない人間をそれこそドミノ倒しのようにパタパタ次から次へと、合法的に排除できるようになる。錦の御旗の「また貸し(権威ロンダリング)」システムである。
自分は国家に睨まれたりすることのないごく普通の日本人だから、そんなドミノ倒しにあうはずがない、無関係だ。そう思っている人がいるとすれば、それは最初から倒れているドミノ同様、ずっと地にひれ伏したままなのだ。
第四回で列挙した「現代の注文」をもう一度思い出してほしい。
国家情報会議設置法(情報一元化)、地方自治法改定(国からの指示権)、予備自衛官等兼業特例法(招集の優先)、そして緊急事態条項の新設(主権制限)。
これらの中央集権化のインフラを上から統べる最強の装置として、彼らは「新しい不敬罪」を欲しているのだ。完成した時点で、国民と国家の主客は完全に逆転する。
かつての不敬罪の役割を果たす反体制処罰システムが欲しいがために、その大義名分に相応しい神格を、いま一度天皇や国旗に再インストールする。これが、この国が進もうとしている「新たなる中央集権」の基本構造だ。
かつての中央集権は、富国強兵を進めるための手段だった。そして、富国強兵の先に何が待っていたか⋯
『注文の多い料理店』の客たちは、
帽子、外套、靴と次々と剥ぎ取られているにもかかわらず、それを親切と思い込んでいた。そのため、最後まで店側にその行為の目的を問うことなく、気づいた時にはクシャクシャの紙くずのようにされていた。現実のディストピアでは、一度見捨てた猟犬(憲法や民意)が、すんでのところで息を吹き返して私たちを救ってくれる保証など、どこにもない。
為政者が用意したもっともらしい「注文」の数々に慣らされ、調理される前に、私たちは問わなければならない。個々の政策の奥にある「店の目的そのもの」を。
民主主義とは、権力が国民に与えるものではなく、国民が権力から守り抜くものだ。その自由の重さを知る者だけが、次の世代にそれを手渡すことができる。私たちの言葉が、まだ自由である今のうちに。