日の丸に矢を向けるなって,いつの時代よ シリーズ 国旗損壊罪①
国旗損壊罪が法制化されようとしている。 まず最初に問いたい。「錦の御旗に矢を向けるのか」という戊辰戦争時の発想が、二十一世紀の民主主義国家にふさわしいのだろうか。 日の丸が現在の法的地位を得たのは一九九九年の国旗国歌法制定によるもので、意外なほど歴史は浅い。が、その「威光」の根は遥かに深い。明治政府が廃藩置県を強行し、神仏分離・廃仏毀釈を断行しながら天皇制国家を構築した百数十年前、日の丸はまさに「錦の御旗」として機能した。 それに逆らうことは、国家への反逆に等しいとされた。臣民は旗の前にひれ伏し、やがてその旗とともに戦場へ向かった。 敗戦後、日本国憲法はその構造を根本から組み替えた。主権は天皇から国民へ移り、国家への忠誠ではなく、個人の尊厳が統治の原理となった。 日の丸もまた、本来ならばその転換のなかで意味を問い直されるべきだった。日の丸の旗の起源は少なくとも源平合戦の頃まで遡る事のできる古来からの物だ。 しかし、民主主義の世の中に変わった時点で、政府のお仕着せではない国旗を、国民が考え決めるべきだったのではないだろうか。もちろん、それは再び日の丸に落ち着いたかもしれないし、別のものになったかもしれない。要は、民主的な手段で決めるべきだったとする考えだ。 ところで、国旗損壊罪を求める声が拠って立つ論理は、驚くほど民主主義国家に転換する以前、つまり敗戦前のものに似ている。 「国旗を傷つける行為は国民感情を著しく害する」「国家の象徴を守ることは当然だ」と、そこに流れているのは、国家の象徴への不敬を許さないという感覚であり、旗そのものに内在する権威への服従要求ではないか。 民主主義国家における「象徴」の権威とは、どこから来るのか。それは国民が自発的にそこに意味を見出すものであって、刑罰によって強制されるものではない。 旗を燃やす行為が仮に愚かで品性を欠くとしても、それを犯罪として国家が裁く仕組みを設けた瞬間、私たちは「象徴への敬意」という内心の問題を法で義務づける社会へ踏み込ん...