『注文の多い料理店』と不敬罪、そして今 シリーズ 国旗損壊罪④
国旗損壊罪について考えているうちに、私は一つの小説を思い出した。宮沢賢治の『注文の多い料理店』だ。
あの物語の客(二人の紳士)は、山奥の西洋料理店に迷い込む。
「髪を整えてください」
「靴の泥を落としてください」
「顔を洗ってください」
「香水を付けてください」
一つひとつの注文はもっともらしい。むしろ親切にさえ見える。しかし最後になって客たちは気づく。料理を注文していたつもりが、自分たちこそ料理される側だったことに。気づいた時にはもう遅い…
『注文の多い料理店』が出版されたのは一九二四年、ほぼ百年前だ。その翌年の一九二五年に、あの「治安維持法」が制定されている。そして賢治が生きた時代には、当然のように「不敬罪」が存在した。
これは私の独自解釈だが、賢治は、不敬罪や翌年に制定される治安維持法が作り出す社会の空気を肌で感じ取り、それを寓話の形で描いたのではないか。私にはどうしてもそう読めてしまう。
あの時代の日本もまた、国家の統合や秩序の維持という名目のもと、「天皇を敬いなさい」「国家を愛しなさい」「国体を疑ってはならない」という、政府からの注文が溢れる社会だった。その背後にあった目的は、欧米列強と渡り合うための「富国強兵」である。
強い中央集権国家をつくる過程で、ほんの少し前には商船の目印に過ぎなかった日の丸が、天皇とともに「神聖な象徴」へと格上げされ、そこへの異議申し立てを不敬罪や治安維持法で抑え込んでいった。
『注文の多い料理店』の注文と同じである。一つひとつには理由がある。問題は、それらが一体どこへ向かっているかだ。
そしてこの物語には、もう一つ決定的に奇妙なディテールがある。紳士たちが連れていた「二匹の猟犬」の存在だ。
犬たちは、物語の序盤で「にわかに泡を吐いて死んで」しまう。紳士たちはそれを悲しむどころか、「二千四百円の損害だ」と損得勘定だけで片付け、平然と見捨てて店の奥へと進んでいく。しかし、自分たちが料理されかける絶体絶命の瞬間、風のように扉を破って現れ、山猫の化け物に噛みついて紳士たちを救い出すのは、死んだはずのあの犬たちなのだ。
この猟犬は、一体何の暗喩だったのだろう。
賢治の時代に照らせば、それは「大正デモクラシーの良識」や「司法の独立」ではなかったか。権力の暴走を止める番犬として機能していた自由主義的な空気や、かつて大津事件で法の下の平等を貫いた司法の精神。それらは国家総動員へと向かう社会の中で、国家権力にとって邪魔なものとして、真っ先に、死んだも同然に無力化された。そう、物語に登場する犬たちのごとく。国民もまた、二人の紳士と同じく、それをあきらめのつく程度のものとして見捨ててしまった。
では、現代の私たちにとって、あの猟犬とは何だろう。
それこそが、権力の暴走を縛「憲法」であり、理不尽な注文に否を突きつける「デモなどの可視化された民意」そのものではないか。
私が国旗損壊罪を見ていて感じる違和感も、そこにある。
「国旗を守る」「安全保障を強化する」「有事への備えを整える」など、一つひとつの注文(政策)に気を取られ、自分たちを守ってくれるはずの猟犬(憲法や民意)をあきらめのつく存在として見捨ててしまえば、私たちは自ら山猫の皿の上へと歩を進めることになる。
明治政府の目的は分かりやすかった。富国強兵である。そのための中央集権の強化だった。
では、現代の日本は何を目指して、中央集権化を進めているのだろう。
国家情報会議設置法を作り(情報収集の一元化)、地方自治法を改定し(国が自治体に指示できる)、予備自衛官等兼業特例法を作り(予備自衛官の招集を職場の指示に優先)、憲法を改定して緊急事態条項を設けようとし(国民の主権制限)、そしてなぜ今、国旗損壊罪(思想・表現に刑罰を与える)を作ろうとしているのだろう。
これらの、『注文の多い料理店』以上に多い国民に対する注文は、何を成し遂げるためのものなのか。
政府はそれを国民に明示していない。全体像を、もう後戻りのできないところまでは見せないようにしている気配すらある。
だからこそ、私たちは個々の注文ばかりに気を取られる、楽観的な客になってはならない。その先を凝視するべきなのだ。
物語の結びで、犬たちに救われた紳士たちは生還する。しかし、賢治はこう書き残している。
「しかしさっき一ぺん紙くずのようになった二人の顔だけは、東京へ帰っても、お湯に入っても、もうもとの通りにはなおりませんでした」
ここで賢治があえて選んだ「紙くず」という言葉に、私は立ちすくむ。
国家が国民を料理しようとする時、真っ先にクシャクシャの「紙くず」にされるのは、今日なら、国民の権利を守るために先人たちが紡いだ憲法のテキストであり、賢治の時代であれば、権力の暴走に異議を唱える思想書や新聞など、紙に書かれた言論そのものだったのではないか。
国家の権威を極限まで崇め奉る社会の裏側で、思想や言論が遺棄・弾圧され「紙くず」へと貶められていく。一度そうして言葉の力を奪われ、精神を恐怖に支配された傷跡(監禁された内心)は、二度と元には戻らない。賢治はそう言いたかったのではないか。
私たちは、賢治の生きた時代の日本と同じ失敗を繰り返そうとしてはいないだろうか。物語のように、犬が息を吹き返し、すんでのところで起死回生をもたらしてくれるとは限らない。
次回最終回。国旗損壊罪を持つ国の事情、および、国旗を燃やす行為すら表現の自由として保護したアメリカの判決を手がかりに、国家の象徴と自由の関係について考えてみたい。