国旗損壊罪は心を監禁する不敬罪の復活だ シリーズ 国旗損壊罪②

    国旗損壊罪の新設。これって、要するに戦前の「不敬罪」の復活ではないか? そう言うと「大げさな」と笑う人がいるかもしれないけれど、法理の根っこを見れば、驚くほどきれいに先祖返りしている。
​    不敬罪とは、天皇や皇族への「侮辱(不敬)」を厳しく罰した戦前の法律だ。主権在民に反するとして戦後すぐに廃止されたはずのこの亡霊が、いま形を変えて蘇ろうとしている。
​    なぜそう言えるのか。理由はシンプルで、この法律が罰しようとしているのは物理的な「実害」ではなく、国民の「内心」だからだ。
    通常の器物損壊罪は、他人の財産を壊した実害を裁く。でも国旗損壊罪(自国旗)が裁くのは、布切れの損害じゃない。国家の象徴を粗末に扱ったという「お上への不敬な態度」そのものだ。
    主語が「国民」から「国家」へ逆転し、国が上から国民の思想をジャッジして直接お縄にかける。シンボルを「人(天皇)」から「物(日の丸)」にすり替えただけで、やろうとしている統制の器は、かつての不敬罪そのものなのだ。
​    そして、本当に恐ろしいのはここからだ。
「日の丸を破るのはマナー違反だから、罰則くらいあってもいいんじゃない?」と素朴に賛成してしまう人達は、国家に「万能のマスターキー」を手渡していることに気づいていない。
​「象徴(抽象物)を侮辱する内心を罰する」というこれまでの法体系には無かった法理を一旦、法制度の中に組み込んでしまえば、その大義名分はどこまでも拡大できる。「国旗の尊厳を守るため」が通るなら、次は「国民が選んだ総理大臣や国会への侮辱も、国家の尊厳を揺るがすから許されない」となるのは火を見るより明らか。
    戦前の不敬罪も、当初より順次適用範囲が拡大していったことを忘れてはならないし、悪名高い治安維持法も、最初は適用を絞るとしていたものが次第に拡大し、思想弾圧に利用されていったのだ。
​    いま、お子様ランチの旗に国旗損壊罪が適用されるのかという議論が国会で大真面目になされている。ばかばかしい議論に貴重な時間を費やしているようにも見えるし、推進派は「そんなものは適用外」と慎重派をなだめる。
    けれど、「どこからが尊厳ある国旗で、どこからがお子様ランチのオマケなのか」の線引きを、法律の条文で完璧に100%規定することなんて不可能なのだ。
    つまり、その線引き(解釈)は、最終的には取り締まる側である警察や検察の「胸三寸」に委ねられることになる。戦前の特高警察の暴虐をわれわれは知っているはずだ。
    お子様ランチの旗のおバカに見える議論こそが、実は「拡大解釈の恐ろしさ」をこれ以上なく鋭く突いた暗喩になっている。
​    実際に、トルコでは「大統領侮辱罪」でSNSに批判を書いた一般市民や子供までを含めて、数十万人規模の捜査対象者が生じ、数万件規模の起訴が行われた。そういう法律づくりを可能とする第一歩。それが国旗損壊罪だ。
​    いま日本でも、総理個人へのデマや誹謗中傷は、一般人と同じく「名誉毀損」で裁ける。なのに、なぜわざわざ国家が「特別法」を欲しがるのか。
    それは、本人の意思に関係なく警察が勝手に逮捕できる「非親告罪」の武器が欲しいからだ。
    時の権力への批判やデマ、風刺を、お上のさじ加減で合法的に圧殺できるマシーンが完成してしまう。
​国旗(国家のシンボル)への不敬を罰する
役職(国家の実体:総理大臣など)への不敬を罰する
政策(国家の意思)への反抗を罰する
​    この3ステップは完全に繋がっている。1番の扉を開けた時点で、2番と3番を拒む防波堤は崩壊するのだ。
    国旗という「物」の議論は、気づけば「権力による国民の縛り」へ。      私たちは今、未来のディストピアへ向かうレールの始発駅に立たされている。
​    次回は、国旗損壊罪はなぜ非親告罪なのかを切り口に、話を繋げていきたい。

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