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石破続投の意味と「戦後政治の決算」

     自民党総裁選をめぐる権力闘争は、しばしば派閥の利害調整や裏金疑惑の処理に終始し、国民の目線からは「内輪の権力ゲーム」と見られがちである。だが、今回の石破氏の去就をめぐる動きは、それ以上の意味を持ち得るのではないか。        第一に、これは「石破か、石破を葬ろうとする勢力か」の争いである。もし石破氏が続投を果たせば、裏金事件で名を汚した議員群の影響力はさらに削がれるだろう。政治資金の不透明さに対する国民の不信感は根強い。裏金議員の一掃が進むことは、日本政治の健全化に直結する。国益の観点から見ても、ここで石破氏を押しのけるのではなく、むしろ「裏金政治の清算役」として存続させたほうがよい。     第二に、石破氏が掲げる政策の実現可能性が、反石破勢力の弱体化によって高まるという点である。農政改革に着手できたのも、まさにその力学の変化ゆえだ。長年「聖域」とされてきた農業政策に手を入れられたことは、政治の惰性を打ち破る象徴的な一歩だった。私としては、日米地位協定の見直しに向けた交渉の端緒を切り拓くことを、石破氏の次なる課題として期待したい。戦後から続く不均衡な枠組みに風穴を開けられるかどうかは、日本の主権と安全保障のあり方を左右する。それは、石破氏の政治課題でもあったはずだ。     第三に、石破氏が続投すれば、自民党そのものが弱体化する可能性があるという逆説も無視できない。石破氏は党内の強固な基盤を欠いており、その分だけ党の結束を揺るがす。だが、それはむしろ政権交代の可能性を高める契機ともなりうる。半世紀以上にわたり続いてきた「自民一強」体制に風穴を開け、戦後政治の総決算を迎える契機が訪れるかもしれない。     裏金議員の処遇、農政や地位協定の改革、政権交代の可能性。これらはいずれも国民が真に関心を寄せるべきテーマである。石破続投の可否は、コップの中の嵐のようでありながら、単なる党内人事の話にとどまらない。日本政治が「戦後レジーム」を清算し、新たなステージへ移行できるかどうか。その分水嶺に、私たちは立ち会っている。

愛国心という同音同字異義語

  「愛国心」と聞いて、あなたはどんな感情を思い浮かべるだろうか。     私にとっての愛国心は、本来、家族愛や郷土愛の延長線上にあるものだった。        身近な人々を思うように、この土地で生きる人たち、文化、季節の巡りを愛する感覚。そうした静かな誇りの広がりが、自然と「国」への思いに通じていく。それが、私の考える愛国心だ。     ところが近年、「愛国心」という言葉が、まるで別の意味で使われているように思える瞬間が増えている。     その言葉の下で、排除や攻撃が正当化され、事実や他者への共感が抑え込まれていく。     同じ「愛国心」なのに、まるで同音同字異義語のようだ。     健やかな愛国心は、共に生きる人々への思いやりや、未来への責任を含んでいる。それは決して他者を貶めるものではなく、「自分たちの文化や歴史を、世界と共有しながら守っていく」ための感情だ。     一方で、もうひとつの「愛国心」は、恐れから生まれる。自国が他国に奪われるかもしれない。自分たちの価値観が崩れるかもしれない。歴史や制度が否定されるかもしれない     そんな「喪失の恐怖」が先に立つと、人は無意識に「自分たちだけを守る壁」をつくり始める。そうして生まれるのが、排他的で攻撃的な愛国心だ。     今朝、カムチャツカ半島近海で大きな地震があった。日本への津波警報はすぐに報じられ、全国的な注意喚起も行われた。     もちろん、日本の安全を守るための情報は必要だ。しかし、それと同じように震源地となったカムチャツカの人々への心配の声が、なぜこんなにも少ないのだろうか?     日本の報道は、カムチャツカの被害についてほとんど触れない。     SNSでも、「日本への影響がなかったこと」を安堵する声はあっても、ロシア極東の人々の安否に言及する声は、ほとんど見られなかった。     これは偶然ではない。     ロシア=仮想敵国、あるいは遠い存在という無意識のフィルターが、私たちの共感...

改革をもたらしたYouTube活用選挙、課題はある

     2005年の参院選では、自民・公明の与党がついに過半数を割り、参政党と国民民主党が大きく議席を伸ばす結果となった。石破政権の方向性の曖昧さ、問題解決に対するスピード感のなさが信頼を失ったと考えられるが、もう一つ注目すべき変化がある。     今回の選挙は「YouTube選挙」だったということだ。とりわけ、国民民主党が「手取りを増やす」、参政党が「日本人ファースト」といったワンフレーズを、YouTubeを通じて巧みに拡散し、訴求力のあるメッセージで支持を集めた。これは従来の選挙とは一線を画するメディア戦略の成功例といえるだろう。  なかでも最も評価すべき成果は、投票率の上昇だ。特に若者の投票率が明確に跳ね上がったことは象徴的である。長年、政治は遠い存在とされ、投票しても社会は変わらないという諦めが蔓延していたが、今回の選挙では多くの若者が実際に投票所へ足を運んだ。YouTubeという彼らにとって身近なメディアが、関心を喚起する「入口」となったのは間違いない。    しかも、まだ投票権のない世代も日常的にYouTubeに触れている。つまり今回のムーブメントは一過性の現象に留まらず、今後の民主主義の地盤を築く長期的な影響力を持つ可能性がある。     従来の選挙では、組織票の効果を最大限とするために「浮動票は寝ていてほしい」と露骨に語る与党重鎮もいた。実際、情報不足や政治不信により、投票率は年々下がり続けていた。低投票率によって現状維持が強化され、民意が反映されにくくなる——この構造は、ある意味で民主主義の死であった。     そこに風穴を開けたのがYouTubeだった。手軽に、そして繰り返し視聴できる動画は、政治を生活の中に引き寄せ、「自分ごと」として捉えるきっかけになった。その点において、YouTube選挙は大きな意義がある。     しかし、当然ながら課題も多い。     第一に、YouTubeやSNSでは、強い言葉・怒り・陰謀論といった「感情に訴えるコンテンツ」がアルゴリズムによって優遇されやすい構造がある。短くて刺激的なメッセージが拡散されやすい一方で、複雑な政策論や冷静な分析はどうしても埋もれが...

トランプはペリーの再来か、奇妙な一致と日本の取るべき道

    今朝のラジオで、高橋洋一氏が「日本はトランプへの対応が遅れ、怒らせた。悪手だった」との趣旨で政府の対応を批判していた。確かに短期のビジネスならそう見える。だが歴史を振り返ると単純にそうとは言えない。     幕末、ペリーが黒船を率いて現れた時、日本は軍事で抗し得ず、1858年に日米修好通商条約を結んだ。これが安政の条約で、関税自主権を奪われ輸入品に好きに税をかけられず、領事裁判権(治外法権)まで認めさせられた。これを完全に回復するまで半世紀、小村寿太郎ら多くの先達の苦闘を思えば、今、軽々しく新たな「不平等」に踏み込む愚だけは避けなければならない。    ただ、当時の幕府は単なる弱腰ではなかった。老中首座の阿部正弘は自ら退き、堀田正睦を据えることで、攘夷派を含めた幕閣の調整を試みた。水戸斉昭を幕政に取り込み、危険な人物と知りつつも意見を吸い上げた。井伊直弼は開国を決断し、反発を抑えるために安政の大獄という強硬策を選び、暗殺される危険も承知で責任を引き受けた。幕府は時間を稼ぐだけでなく、ぎりぎりまで人事と知恵を尽くして国内をまとめ、なんとか国を保とうとした。また、幕府は、条約を結んだ後もひそかに関税率を改定する交渉を模索し、外国商館の貿易活動を制限するために許可制を厳格化するなど、できる限りの統制を試みた。一見もたもたは、裏を返せば粘り強さでもあったのだ。     今の日本はどうか。日米地位協定は、かつての領事裁判権の現代版だ。米軍は日本国内にありながら、日本の法律が及びにくい。そこにトランプはさらに駐留経費負担を迫った。一見金の話だが、負担を増やすほど米軍の「地位」は強固になり、主権が及ばぬ範囲は事実上拡大する。     トランプは「ペリーの再来」か? と考えると、奇妙なほど現代と重なる構図が見えてくる。     ドナルド・トランプは、日本に書簡を送りつけて関税問題を厳しく突きつけ、日本の交渉相手とは合わない事で、自分との会談を一種の特権に変えた。     それはまるで、ペリーが大統領親書を突きつけ、日本側に「黒船の威」を見せつけながら、なかなか会おうとせずに揺さぶった手法の再現だ。    トランプ自身は...

バカげたディールには、バカげたカウンター策を

   トランプ米国大統領は、防衛費の大幅増額、アメリカでの自動車生産並びにアメリカ車の輸入など、日本に対して、強気の要求を突きつけてきている。     米国トランプ大統領は、日本をタフネゴシエーターとは考えていない。それどころか、強引な要求を突きつける姿勢を貫けば、日本は丸呑みにすると思っているのだろう。     関税交渉のために日本から大臣が6回も渡米したというのに、交渉が前進するどころか、更なる関税の引き揚げを示唆してくるなど、日本は完全に舐められている。  「結局、日本はトランプの言いなり」。そんな冷笑が日本国内にさえ漂うのも無理はない。     それならばいっそこの際、トランプ氏の要求を丸呑みにしてしまってはどうだろうか。ただし、日本のお家芸の柔道を応用しつつ。     相手が押してくる力を巧みに利用して、逆に相手を投げ飛ばしてしまうのだ。     まずは防衛費だ。トランプ氏は、非公式に日本の防衛費を3.5%に積み増すように要求していると言われる。それに乗ってやろうじゃないの。    だが、トランプ氏の望む米国製兵器の爆買いはしない。防衛費の増額分は徹底的に日本の国益に回す。    まずは、防衛費で全国の空港・港湾施設の整備を進める。実際のところ、政府は有事の際に自衛隊が利用することを条件に、国費を投入し、空港・港湾の設備を全国に進めていく計画だ。これを前倒しでどんどん進め、実際には交通・観光・防災の拠点として機能するようにすれば良い。自衛隊の利用はむしろおまけだ。     政府は、核シェルターの建設も少しずつ前に進めようとしているが、これも防衛費で進めることになんら問題はない。もちろん自然災害が起きた際には避難所として使う。目的としては、こちらがメインだ。     領海の守りを強化するために防衛費を使って艦艇を多数建造しよう。自衛艦ではない、Japan Coast Guard つまり海上保安庁の巡視船だ。これで、中国海警に対して数の上で劣勢な尖閣の警備を強化する。イージス艦など作ろうものなら、アメリカから高額なイージス・システムを購入しなくてはならない...

黙示録のラッパを、吹かせてはならない

     −第一のラッパが鳴った−     アメリカによるイラン核施設への空爆に、黙示録の1節が、不意に頭をよぎった。     七人の天使が手にしたラッパ(Trumpet)が鳴り響く度に、地上に深刻な災厄がもたらされるという、あの黙示録だ。ヨハネの黙示録とも呼ばれる。     しかし、ラッパを吹いたのは、天使ならぬイスラエル首相ネタニヤフ。彼が吹き鳴らしたTrumpet とは、アメリカ大統領トランプ(Trump)その人だ。     黙示録によると、第一のラッパで、雹と火が地に降り、地の三分の一が焼かれる。    イランの核施設への先制攻撃。それは、地上の一点への爆撃に留まるものではない。   「先に攻撃するのが正義」「未然に破壊すれば平和」という論理が、これをもって正当とされるなら、世界中の火薬庫に火が回るのは時間の問題だ。 黙示録にあるように、地の三分の一が焼かれる。それが未来図になりつつある。     また、今回の核施設への空爆では、辛うじて核汚染による災厄は免れたが、一度、核施設への攻撃を常套の手段として認めてしまえば、戦争の度に繰り返される危険が生じる。    黙示録の第二のラッパでは、燃える山が海に投げ込まれるとあるが、これはまるで、核施設や原子炉が破壊され、汚染が海へ広がる様子を描写しているかのようだ。     私達はこの先、第二のラッパを吹こうとする者が現れぬよう、今回のイスラエルとアメリカによる核施設への攻撃を最大級の声で非難するとともに、予防策を講じなくてはならない。     断っておくが、この先にラッパを吹き鳴らす者が続いたとしても、最後の第の七のラッパによりもたらされるという神の国は来ない。    なぜなら、今、起こっていることは神の計画などではなく、飽くまでも人による愚行だからである。     例え、天の使いの如く振る舞い吹き鳴らそうとも、鳴り響いているのは、人による災厄のファンファーレなのだ。

ガザに生きるアンネ・フランクたち

    6月12日は「アンネの日」。アンネ・フランクが13歳の誕生日に日記帳を受け取った日だ。     ナチスの迫害から逃れ、屋根裏部屋に潜んで暮らしたユダヤ人の少女。     彼女が綴った言葉は、世界中の人々にいまなお問いを投げかけ続けている。     彼女の生きた時代から数十年経った今、同じこの地球の上で、ガザでは空爆と飢餓の中に子どもたちが生きている。     崩れた家の下から家族の遺体を探し、配給所の列に並び、避難先も行き場もないまま、「明日がある」という感覚を失いながら。       その過酷な日常を生み出しているのは、パレスチナの人々を一方的に敵視し、力によって支配しようとする論理だ。イスラエルのネタニヤフ政権が進めているのは、武力により人々を追い詰め、居場所を奪い、生命すら脅かす政策であり、そうした暴力の連鎖が日々形を成している。     かつてユダヤ人を襲った惨劇を、人類は深く悔い、二度と繰り返さぬよう誓ったはずではなかったか。過去の民族浄化を生き延びた人々の末裔が、今度は加害の側に立ってもよいと、ネタニヤフ政権とその支持者たちは考えているのだろうか。そうであっては欲しくないし、そうあってはならない。    また、この状況に異を唱え、 戦争を止めようと声を上げる、あるいは 占領政策に反対する イスラエル市民、そして世界中のユダヤ人が 存在する。国内外からネタニヤフ政権に働きかける声がある。     アンネ・フランクの日記は、彼女が逮捕されたその日を最後に、突然終わっている。     この「日記が途切れた」ことの重さを、私たちは忘れてはならない。 彼女の人生が、言葉を綴ることすら許されないまま、断ち切られたということを。     だから、 ガザの子どもたちの日記は、途中で終わってはならない。悲しみでなく 、小さな笑いや夢が綴られるページが必要だ。   「学校に戻った日」「友だちとケンカした日」「将来の夢を語った日」、 そんな平和な日々にたどり着くまで、どうか日記は続いて欲しい。     アンネの日記...