正義と伝統にすり潰される、反論権なき10代のリアル

    いま、皇室典範を巡る議論がネットやメディアでこれまでにない熱を帯びている。
    昭和の時代にあった「天皇制そのものの是非」というイデオロギー対立は影を潜め、令和の今は「天皇制があることを大前提とした、その内実やルール」を巡る激しいぶつかり合いが主流だ。
​    一見すると、皇室への関心や敬愛が高まっているようにも見える。しかし、その内実をジャーナリスティックに覗き込んでみれば、そこに広がっているのは、自分の見たい虚像を相手に押し付け合う、きわめて醜悪なポピュリズムと、無自覚な加害の構造だ。
​    あえて憎まれ口をきくなら、私たちは「正義」や「伝統」というお題目を唱えながら、反論が許されない一人の若者の人権を、平気ですり潰している。
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​「愛子様推し」という名の、無邪気なイジメ
​    ネットやSNSで最大勢力を誇るように見えるのが、「愛子様推し(直系長子・女性天皇容認)」の層だ。彼らのロジックは一見、極めて現代的で正しい。
「ジェンダー平等の時代に、女性だから排除されるのはおかしい」「天皇ご一家の歩みを見ていれば、直系長子が継ぐのが自然だ」という意見は、もっともらしく聞こえる。
​    しかし、この心地よい正義を裏返せば、現行ルールに従って次代を担うべき、悠仁親王の存在を否定するという残酷な側面が見えてくる。
​    SNSを開けば、まだ未成年である一人の青年の学業、進学先、お人柄、あるいは日常の些細な一挙手一投足にいたるまで、重箱の隅をつつくようなバッシングや冷笑が溢れている。「愛子さまが継げないのはかわいそう」と語る同じ口で、公的な反論権を一切持たない若者の境遇には配慮しない。それどころか「理想のヒロインの物語を阻む悪役(ヒール)」として扱い、その人格までを叩いている。
    大衆ポピュリズムに呑まれ、無自覚のうちに加害者になっている面のあることは否めない。と、私は思う。
「2600年史実派」という名の、冷酷なハラスメント
​    一方で、男系維持を叫ぶ保守派(2600年男系史実派)の姿勢もまた、別ベクトルの冷酷な加害に満ちている。彼らは一見、悠仁親王を未来の天皇として擁護しているように見えるが、その中身は驚くほど非人間的だ。
​    彼らが守りたいのは、生身の青年の幸福や人格ではない。
    科学に照らせば幻想でしかない「2600年の男系Y染色体を、次の世代へ産み落とせるか」という、一点のみである。
​    彼を伝統のラストピースとして神聖化すればするほど、彼個人にかかる生殖のプレッシャーは、現代の倫理観では一発アウトなレベルの、凄惨なセクシャルハラスメントに達する。「皇位継承は義務であり、個人の自由などない」という建前のもと、一人の人間に究極の自己犠牲を「お国のため」として冷酷に強要しているのだ。
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​象徴という名の「不条理なシステム」
​「人間はみな平等であるべきだ」という現代の鉄則に照らせば、皇室はそもそも、生まれながらに職業や結婚、移動や言論の自由すら制限された、究極の人権侵害システムである。逆に言えば、生活苦のあり得ない身分を、生まれながらに保障されているという不平等の極みとも言える。
​    私たちは、社会の安定や「国民統合の象徴」という便利な装置を、できるだけローコストに維持するために、一人の生身の人間(ロイヤルファミリー)の人生をあらかじめ「生贄」として捧げているのではないか?
​    男系男子派は「システムの永続」という虚像のために当事者から人間性を剥ぎ取り、愛子様推し派は「自分たちの見たい完璧なファミリー」という虚像を求め続ける。
​    双方が大義名分を掲げて揉み合う中、その身勝手な欲望の板挟みになって精神をすり潰されているのは、生身でそこに立たされている当事者達である。
    その残酷な事実を直視する覚悟が、私たちにあるのだろうか。

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