国会の泥仕合を単なる政局と見るべきでない「政権の狙い」​

   物価高、円安。生活実感として最も苦しいこの時期に、国会は皇室典範改定と副首都構想、議員定数削減をめぐって泥仕合を演じている。「今そんなことをやっている場合か」というもどかしさは、多くの国民が共有する率直な感覚だろう。
​    私の目にも最初は、「自分らのやりたいこと最優先のわがまま与党」と「なりふり構わないみっともない野党」の不毛な争いと映っていた。      しかし、高市政権になってからの動きを俯瞰すると、目の前の泥仕合に目を奪われていては、もっと大きな「社会の基本設計(OS)そのものを書き換えようとする動き」を見落とすと気づいた。
​    その不穏な動きは、領域の異なる3つの政策として、同時に姿を現している。
​     それを、中央集権化へ向かう3つの足枷と呼びたい。
    ひとつめは、内心の自由に踏み込む「国旗損壊罪」。
    非親告罪という設計は、被害者の訴えなしに国家が動ける仕組みであり、思想に対する刑罰の最初の一手となるものだ。国旗という象徴への不敬から、総理批判、やがて政策批判までも萎縮させる狙いがあるだろうことは、不敬罪や治安維持法のあった時代を振り返れば明白だ。
​    ふたつめは、「皇室典範改定」。
皇室という国民統合の象徴を、政治的な駒として扱っている。国民の8割が女性天皇を望む中、その素真面目な選択肢を排除し、将来の天皇の父親を実質政府が斡旋しうる「元皇族の養子縁組」という奇策を強行しようとしている。自分たちがコントロールしやすい権威にしたいという思惑が透ける。
​    みっつめは、「エネルギー料金支援」。
    使うほど、売るほど税金の恩恵を受け、節約するほど損をする歪んだ設計。税金を企業収益へと還流させる迂回構造であるとともに、政府が価格をコントロールし、「国民に恩恵を与えてやっている」という構図を維持する。根本的な解決を避け、国家への依存度を高めようとする意図は、国民を従属させるための都合の良さがある。
​    この3つは、一見バラバラに見えて、一つの重大な方向に向かっている。
    それは、足枷を掛ける事で、「為政者がより強い国家権力を持って、国民も皇室も従わせる」という、超中央集権化への急進だ。
​国会の「不毛な空転」の実態は「防波堤の戦い」ではないのか?
​    そう気づいた時、野党の強い抵抗の見え方がガラリと変わる。
    それは単なるサボタージュや足の引っ張り合いではなく、中央集権国家のディストピアへ急ぐ流れを押しとどめようとする、文字通りの防波堤の戦いと言えるのではないか。国会の空転を不毛と切り捨てる前に、彼らが何を止めようとしているのかを私たちは問う必要がある。
​    また、冒頭に「政権のわがまま」と書いたが、わがままという言葉ひとつで片付けるのは雑なので、思う所を説明させて欲しい。
​​    高市首相の政治スタイルで際立つのは、理念は強く打ち出すが、そこから生じる混乱や国民負担については、自ら引き受けて調整する姿勢が極めて弱いという点だ。
​    対中発言も、積極財政も、円安容認も、理念を掲げるのは本人だが、その代償(コスト)をリアルに支払わされるのは常に市井の国民である。
    そして、冷え込んだ関係の修復や経済の収拾という泥臭い実務は、すべて閣僚や官僚、日銀といった現場に委ねられる。要するに自分で尻を拭けない。
​    この「理念先行、責任のツケ回し」の型こそが、高市政権下で、社会の混乱を貫く共通項であり、国会が激しく軋み泥仕合を生み出している大元なのだ。
    超中央集権国家も、痛みを強いる分断政治も、私たち国民はそんなものは望んではいない。

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