日本を蝕み続ける「破綻へのアルゴリズム」

    少し前に、『正義と伝統にすり潰される、反論権なき10代のリアル』という記事で、今日盛んに取り上げられている皇室典範を巡る問題について、主に人権上の視点から私なりの考えを述べた。
    今回は、別の視点から皇室典範改定(あえて「改正」ではなく「改定」と表記する)の問題点に触れるところから語り出そう。
永続より破綻を選ぶ奇妙な習性
​    仮に、現行のルール通り「男系男子」だけで皇位を継承していくとしよう。
    旧宮家からの養子縁組というウルトラCを採用すれば世継ぎは安泰かといえば、数理シミュレーションの観点からは、全く楽観できない。
​専門家によって前提条件は異なるものの、いずれも「数世代から十数世代のうちに継承者が途絶える確率が極めて高い」という結論では一致している。
​    ある試算では、1組の夫婦から出発して子どもが1人ずつという厳しい条件下で、8代続く確率はわずか256分の1、16代続く確率に至っては6万5536分の1にまで落ち込む。前提を多少緩めたとしても、傾向そのものは変わらない。
​    過去の歴史に8人10代存在した「女性天皇(男系女子)」を認めれば、命脈を保つ確率はいくらか上がるだろう。さらに「女系・双系」まで視野に入れることで、理論上はほぼ永久にシステムを安定させることも可能だ。しかし、それが皇室典範に反映される気配はない。
​    皇室典範に限らず、システムの永続性を保つことや客観的なデータよりも、自分たちのイデオロギーやフィクション、メンツにこだわり、結果として「永続よりも破綻」を選んでしまうことが日本では起こりがちだ。
​「伝統や文化を重んじる日本人が、永続よりも破綻を選ぶはずがない」と反論する人もいるかもしれない。
だが、本当にそうだろうか?
​    歴史や現状を見渡せば、私たち日本人は高い確率で「持続可能な選択肢を捨て、破綻の道を選ぶ」という、思考のバグとでもいうような誤りを繰り返している。
科学的なデータを無視し、破綻へ向かう制度
​    例えば、「姓(夫婦同姓)」に関する制度だ。
​    歴史を振り返れば、苗字は時代に合わせて柔軟に文字を変え、新しく作り、多様性を保つ機能を果たしていた(「藤原」の威光にあやかって佐藤、斎藤、加藤と増殖したように)。
​    しかし現代の日本は、「苗字が一緒なら家族の一体感が守れる」というフィクションに沿い、法律で「夫婦同姓の強制」というルールを頑なに維持している。その行く末として、東北大学の数理シミュレーションが「数百年後には全員が佐藤さんになり、多様性が消滅する」という試算を弾き出しているにもかかわらず、制度の変更を拒み続けている。
​    これは皇位継承問題とよく似た構造の硬直化だ。2つを並べてみるとよく分かる。
​苗字: 柔軟に変えられるはずのものを「家族の一体感」というフィクションで縛り、特定の苗字に収束させ、苗字本来の意味や役割を消失させる道を選ぶ。
​皇室: 毎世代ブレンドしなければ確率論的に絶滅することに目を瞑り、「2600年にわたる男系男子」というフィクションで縛り、消滅へ向かう。
​    似たような構造は、至るところに転がっている。
​    農家の営農限界と後継者不足という現場の悲鳴を無視し、その場しのぎの価格調整と減反で国内の農業基盤を弱らせ、最終的に米国等からの輸入頼みに追いやろうとしている米・農業政策。
​    10万年単位の最終処分場や核燃料サイクルとなると、もはやサイエンスの皮を被ったフィクションだ。その非合理性から目を背け、現在の利益という目先の都合を優先して未来世代に巨大なツツケを回す原発政策。
​    どれも共通しているのは、「実際のデータや科学的な限界を無視し、自分たちに都合のいい伝統や大義名分を優先して、破綻するまでツケを先送りする」というパターンだ。
​ 
骨太の方針、財政の永続性への不安
​    そして今、この「破綻へのアルゴリズム」は、国家の経済・財政政策においても大変な局面を迎えている。7月21日に閣議決定された、高市内閣として初めての「骨太の方針2026」のことだ。
​    この決定において最も懸念すべきは、これまでかろうじて機能していた「財政健全化(プライマリーバランス黒字化)」というブレーキを緩めてしまったことにある。
​    ただでさえ達成が難航していた財政健全化のタガを緩めてしまえば、今後どれほど支出が膨らんでいくか予測もつかない。既に数百兆円規模の巨額な投資枠が打ち出されているが、過去の政府関連投資の失敗を徹底解析することなく突き進めば、さらに巨額の破綻を再演することになりかねない。
​    巨額投資に大企業や政商は天から金が降ってくる思いかもしれないが、市場の反応は冷ややかで、骨太の方針の発表と同時に金利は上昇し、円安が加速している。日本の国家財政の永続性に、不安を持たざるを得ない状況だ。
「その場をしのげる適応力」という長所こそが呪縛
​    この、持続可能性を軽視する習性は、一体どこから来るのだろうか。
​    近年の国際意識調査などを見ても、日本人の地球温暖化問題に対する危機意識や関心は、欧州諸国に比べて低い。
​    例えば、現在、生命を脅かす熱波に見舞われているフランスでは、少なからぬ市民が「エアコンの排熱が都市部をさらに温め、地球温暖化を悪化させる」という理由から、室内温度が40℃近くになろうとも家庭へのエアコン設置を安易に増やそうとしない(もちろん、命を守るために設置へ動く人たちも少なくないが)。彼らは過酷であっても「持続可能(サステナブル)か否か」という理念と原理原則にこだわっている。
​    一方で、私たち日本人はどうか。
気候変動で夏が激熱化すれば、「エアコンをフル稼働させればいい」「高温障害に強い米の品種(猛暑耐性米)を開発すればいい」と考える。事実、日本の技術力と努力はそれを実現してしまう。
​「道がぬかるみゃ下駄を履きゃいい」。良くも悪くも、これが日本人の美徳であり、習性なのだ。
​    原理原則を打ち立てて未来をシステム設計するのではなく、目の前の環境変化に対して、その都度「道具(下駄)を変えて器用に乗り切る」ことで、私たちは歴史を生き抜いてきた。
​「なんだかんだで、その時々の環境に対応してきたから、先のことは何とかなるさ」
「事実、あの太平洋戦争の荒廃からだって見事に立ち直ったじゃないか」
​    この成功体験と、持ち前の「その場をしのげる器用さ」があるからこそ、私たちは気候変動や様々な制度の破綻を本気で心配しようとしないのではないか。
大げさだと思う? 対米戦争しちゃった国なのに
​    だが、その「下駄を履き替えて乗り切る」器用さが通用しなくなる限界点こそが、すなわち「破綻」である。
​「大げさだ、そんな簡単に破綻するわけがない」と笑うだろうか。
​    だが、思い出してほしい。先ほど「敗戦の荒廃から立ち直った」と書きはしたが、かつてこの国は、「負けると分かっている(持続不可能な)対米戦争」に突入し、その結果、大破綻を経験しているのだ。
​    当時の総力戦研究所や陸海軍の専門チームは、日米の生産力や石油供給量の絶対的な差を弾き出し、「戦えば100%敗北する」というデータを出していた。
    しかし指導者たちは、その科学的データを「敗北主義」として排斥し、「引き下がれない」というメンツと「空気」に流され、御前会議という最高意思決定制度で逃げ道を塞ぎ、誰も責任を取らないまま破綻へと突き進んだ。
​    皇位継承、夫婦同姓、原発、米政策、そして財政規律を捨てた骨太の方針。そのどれもが、科学的な持続可能性を捨て去っている。85年前に戦争を選び国を滅ぼしかけた時と何一つ変わらない、この国の意思決定の欠陥構造そのものだ。

​お上に任せておけばよい?
​    また、日本人特有の気質と言えるかもしれないのが、「それはお上の仕事」「誰かがやってくれる」という責任転嫁の発想だ。
​    私の身近な体験で言えば、地域で子ども食堂の活動をしようとすると「そんなことは国やお金持ちがやることだ」と冷たく言い放たれたことがある。また、毎日の川辺の散歩の際にゴミ拾いをしているのだが、野外パーティーの後に散乱したゴミ放置の現場に出くわすことも珍しくない。社会や環境の持続可能性を考えれば、一人ひとりが無関心であって良いはずがないと思うのだが。
​    組織においては「空気を読み、データを読まない」。
    個人においては「誰かがやってくれると、責任を放棄する」。
​「破綻しても、その時々で何とかなる」あるいは「誰かが何とかしてくれる」と開き直ることは可能だ。
    しかし、あらかじめ予見できる破綻の痛みを味わわずに済む道、あるいは子孫を犠牲にしない社会を選択することこそが、今を生きる私たちの責任ではないだろうか。
​    世の中がなかなかそうした動きを見せないことに、苦しさを感じずにはいられない。

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